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虚構新聞の日本ユニセフネタ。個別評価する人と総合評価する人とでは、相いれない部分がある。

虚構新聞の日本ユニセフネタで賛否があるようだけど、イマイチ理解できないところがある。

「デマ」なのか、「ネタ」なのか、「ボケ」なのかという部分ではなく、

賛成側:「日本ユニセフに悪い部分を強く感じているから」、悪者が批判されたり、笑いのネタにされるのは気分がいいし、おもしろい。

否定側:「日本ユニセフに悪い部分を強く感じないから」、日本ユニセフが悪者のように批判されたり、笑いのネタにされるのは気分が悪いし、おもしろくない。

日本ユニセフのような人々の善意の資金によって運用されている組織ではなくても、まっとうな組織は、広告塔が健康食品「五色霊芝」のようなものを販売しいたことを知れば、続けさせることはないだろうし、その他の情報もしっかり調査して、辞めてもらうということができると思う。

それができない組織が、数百億円から20%近く中抜きしているとしたら批判する側に回るのが普通だと思う。

  • ユニセフに募金を送っていること。
  • 広告塔の個人的な問題。
  • 日本ユニセフの中抜き。
  • 虚構新聞がデマを含めたボケをネタとして流布するということ。
  • 募金しなきゃ良いだけ。
  • 無知で善意の子供たちがだまされている。

物事を個別に考える人と総合的に考える人がいる。個別評価する人と総合評価する人とでは、相いれない部分があるのかもしれない。

個別評価する人は、広告塔や中抜きの問題を切り捨てることができるけど、総合評価する人にはそれができない。

コメント欄の「もし虚構に自分の流言飛語を今回の件のように流布されて、ネタだからと許せるのか?」これこそが個別評価する人がいろいろな問題を切り捨てて、問題組織と一般個人を同列に考えていることの表れだと感じた。

虚構新聞の日本ユニセフネタについて、ユーモアのレベル問題だと思っている人もいるけど、コントや漫才は背景や時間関係を総合的に見て、世界観を感じながら受け入れるものだと思うので、お笑いというものが理解されにくくなってきているのも理解できる気がする。

さらに広くとらえると、物事を総合評価することができないということは、場当たり的な対応に終始することになるので、発想力、技術力や競争力という部分でも衰えが出てきているのかもしれないし、階層がはっきりとできつつあるのかもしれない。

 

人事評価の教科書―悩みを抱えるすべての評価者のために

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評価経済社会・電子版プラス

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赤ワインの品種を3つだけ覚えた。

赤ワインの品種。まずは3つだけ覚えておけば大丈夫らしい。

これまで、安いワインは飲んできたけど、それはアルコールが入っていて飲みやすいということ以外にはたいした理由がなかった。それでいい気もするけど、せっかく種類があるなら、それはそれで覚えると趣も変わってくるかもしれない。

要は、フランス系3種類をまずは覚えようということらしい。

  1. カベルネ・ソーヴィニヨン
  2. ピノ・ノワール
  3. シラー(シラーズ)

1.カベルネ・ソーヴィニヨン(フランス:ボルドーなど)

  • 重厚で渋めのワイン。
  • 口当たりが軽めのワインとブレンドされることが多い。
  • ブレンドの比率をチェックすると味を予想できるかも。

2.ピノ・ノワール(フランス:ブルゴーニュなど)

  • 香り高く、軽口で飲みやすい。
  • ブレンドされることが少ない。

3.シラー(シラーズ)(フランス:南部)

  • スパイシーで特徴的な香りで、肉料理に合う。

それぞれの品種で特徴はあるけど、大衆向けにブレンドされているものが多く出回っているんだと思います。

とりあえずチェックしてみて、ここで紹介されているものがあれば、確かめてみたい。

 

ワインの基礎知識―知りたいことが初歩から学べるハンドブック

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ふと我に返り、また日常に笑顔を見せる。

進撃の巨人を見ていて、その力強さにはまってしまって、深夜に海外の謎のサイトでまとめて25話くらいまで見てしまった。

話は壁の中で暴れる同期の女の子が巨人化して、その子を倒すところまでだったと思う。その続きを待ち続けていたら、その話でテレビでの放送が終わっているらしく、すごく残念だった。

絶対的な弱者の平和というもののなかで、その限界を感じることがある。それを意志によって力に変え、決断に結びつける。それで現状を変えるということはできないけれど、自分の選択を決定づけることはできる。そして、それが一番大事なことのように感じる。

強さには惹かれるし、目を覆いたくなるような弱さについても、目をそらさずに、居るということを強いるこのアニメの強引さも1つの非日常を感じさせてくれる。

誰かの世界観の中でひと時を過ごすということは、自分のありふれた日常から抜け出すことができるということ。

それを自分のイメージとして、想像を膨らませていくことで誰かの世界観ではなく、自分の世界として現実をとらえられるような幻覚の中に居ることができるようになる。

ただ、アニメをアニメとして終わらせるのではなく、その中に没頭し、痛みを感じ、感情を押しとどめることで自分自身から離れることができる。幻覚の中で興奮し、それが脱力に代わり、飛躍の時間は終わる。

ふと我に返り、また日常に笑顔を見せる。

 

 

幻覚α波

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「続けるということ」。技術を習得する過程で、結局、精神論・メンタルの部分での成長が必要になる。

ブログを書くということは、どういうことなのかと考える。

「テクニックの前にメンタルを鍛えるとどうにかなっちゃうことが多い」という記事をどこかで読んで、どこかストンと落ち着くところがあった。

スポーツでも、勉強でも、ブログを書くことでも、いろんな技術論はあるけど、その技術を習得する過程で、結局、精神論・メンタルの部分での成長が必要になる。そこに重点を置かざるを得ないというところが出てくる。

スポーツだったら猛練習、勉強だったら猛勉強というようなもの。要はメンタル面の限界を超えるための練習だ。

ブログで自分の考えをまとめて、書き記すということは大きなストレスとなるかもしれない。誰とも知らない人に「笑われているかもしれない」「批判されているかもしれない」「自分は間違ったことを書いているかもしれない」。そういう想定を受け入れなくてはならない。

その上で、毎日書き記すということを続けることで、メンタルの限界を広げることができるし、精神的に許容できる幅を維持することができると思う。

経済的、社会的な日常の問題に対して、自分の中で整理するということはブログを書くことなしにできるかもしれない。しかし、そこには他人の存在はない、批判の可能性もない。批判されることを想定し、それでも公開した意見と、その想定の無い意見に実質的な差はそれほどないかもしれない。

しかし、その意見の差が重要なのではなく、重要なことは、その意見を発言する主体の許容力のようなものではないかと感じる。発言することが終着点ではなく、その発言に対して批判を受け入れるか、再反論して、互いの差異を認識して、存在を認めるということ。そして、また自分が発言するということ。

日常的にそのようなことを会議などで行うことを求めら得るような立場の人もいる。しかし、大部分の人はそうではないと思う。だからと言って、そうすることができなくても良いということではないし、そうあるということは自分の自信にもなるし、素晴らしいことだと思う。

スポーツでは技術論の薄い精神論が出てくるので批判の的になっている。ただ、そこで、技術か、メンタルかという選択になってしまっている。

指導者は技術を教えようとしてメンタルの限界に阻まれ、メンタルの強化で思考錯誤する。観戦者は「テクニックはあるけど、メンタルがない」というような批判をする。

自分の意見を言いきるという場が必要だと思う。

 

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はじめる技術 続ける技術 一流アスリートに学ぶ成功法則

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支配されるということに慣れていれば、逆にそれは、支配していると言うこともできる。

久しぶりにがっつりとしたトレーニングを行った。

一見変わらないようなことでも、実は同じことだったということはある。その同じことをどのような意識で行うのかによって、スピード感が違ってくる。

自分たちで主体的に行動するということは素晴らしいことだけど、そこに知識や技術がなければ、支配されることを前提とした予測が必要となる。自主的に行動していると自分自身で感じていても、そのように行動することに限定させられていれば、それは動かされているということ繋がる。

支配されるということに慣れていれば、逆にそれは、支配していると言うこともできる。コントロールすることをやめることで、その環境は自分にとってコントロールしやすくなるということ。

会議などで決定権が無いということを受け入れることができずに、愚痴る人もいるけど、その状況を受け入れたうえで状況をコントロールするということを忘れていはいけない。

そういう中で、自分の立ち位置を知り、必要な技術を知るということ課題になる。先に立ち位置を学び、今は振る舞いのための技術を覚えつつある。

そして、これから何が必要になるのか?

コントロールすことができるようになってきたら、より専門的な人に力を発揮しやすい環境を作るための努力をしなければならない。そして、自分自身でもより専門的なものを作れるだけの素養を身につける必要がある。

それがこれから取り組むべきことだと感じている。

久しぶりに2時間半くらいの厳しいトレーニングだったけど、大きな土台ができつつあるということはわかっている。

 必要なことは空気を読めということではなく、自分の立ち位置を正確に確認し、それをより良いものにと考えていく力だと思う。涙を流した分の成長を得ることができれば、その涙には強い意味があるだろうし、いつかその記憶が薄れても、成長の過程として思いだすことができると思う。

権力と支配 (講談社学術文庫)

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インテンション・エコノミー?顧客が支配する経済

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まだまだ指導者の育成に多くの時間とお金を費やさなくてはならないレベル

U17がスウェーデンに負けたらしい。勝つだろうと思って寝てしまって見ていない。フジテレビかどこかで深夜にでもやるだろうと思ってあきらめてしまった。

試合結果からのコメントなどを見ていると、ブロックを作って守られて崩せなかったらしい。

要は、「敵が守っていないところから攻める」という記者に素晴らしいといわしめた戦術が、「敵が守っていないところがなかった」ということで、通用しなかったということだと思います。

あたりまえだけど、守るときにブロックを作って守るので、サッカーだけではなく、将棋でも戦争でも、運動会の騎馬戦や棒倒し、カードバトルのディエルマまで、あらゆる戦いの定石です。

守っていないところ探して、ボールが行ったり来たりするというのは、日本代表が良く批判される試合内容です。

重要なことは、「敵が守っていないところを作って攻める」ことです。

 

それよりも、高さが足りなかったという意見がある。要は武器が足りないと感じた時に、もっと武器を持っていればという意見です。

敵との身長差が10センチ近くあるという話もあります。背が低いということはアジリティーで勝っているとういうことです。そして、基礎的な判断のスピードでも勝っているはずです。スポーツにおいて敏捷性というのはすごく大きな要素で、トラップ、ドリブル、シュートなどあらゆるプレーで優位に立つことができます。

たぶん試合でも優位に立った場面は少なくないはずです。日本代表レベルになると生まれながらに特別なアジリティがあり、世界的に見ても単純な判断のスピードは速いはずです。それを元にその他の選手より十分に多くの経験を得ているはずです。それでもそれを生かしきれないなら、それまでの指導が間違っているか、現在の戦術に問題があるのでしょう。

吉武のやろうとしたこと、そして、その結果からみても、まだまだ日本は選手の育成だけではなく、指導者の育成に多くの時間とお金を費やさなくてはならないレベルだということだと思います。

 

日本が絶賛された試合を見てみると、敵に守備をやりたがらない守備的な選手がいて、「敵が守っていないところ」ができていました。そして、そこをうまく攻撃していました。それをすげ~と言ってしまう記者がわざわざカタールまで取材に行っているらしい。さらに、現地に居ない記者をtwitterで批判しているらしい。まずはJリーグをしっかり勉強したほうがいい。

覇者の戦術―戦場の天才たち (Truth In Fantasy)

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マキアヴェリ戦術論(新版)

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野球の「沈黙の10年間」、サッカーの「沈黙の10年間」、柔道の「沈黙の10年間」、体操の「沈黙の10年間」

「沈黙の10年間」と「意図的な練習」というキーワードが成功する秘訣らしい。

モーツアルトでも10年間意図的な練習を続けることなしには、多くの有名な作品を生み出すことはなかったと言われています。

「沈黙の10年間」とは、簡単に言うと下積みの時代ということだと思います。そして、「意図的な練習」とは、目標を持った、何かを改善し、成長するための練習ということだと思います。

スポーツで言うと、ただ公園でボールを友達と追いかけるということではなく、プレーの中でどのような課題があり、それを克服するということを意識して集中して練習するということだと思います。

小学生になって始めたスポーツがあり、現在、6年生だったら、6年経過したことになる。後は、中学の3年で9年なので、高1の段階でほとんど完成しているということになる。

そういう意味では、多くの子供が生涯のスポーツを始める小学生の6年間はすごく重要だということがわかると思います。

小学生では、「好きになること」「楽しむこと」が大事だと言われる。何かを意図的に学ぶということは本来楽しいことだけど、自分のできないことをできるようにするという喜びを感じられるようになるまでにはなかなか大きな壁がある。

ただ、「意図的な練習」というものを取り入れていくということは重要なことだと思います。

有名な選手の多くは、「あの人はいつもあの練習をしていた」という逸話が残っているものです。同じ練習を周りの人に覚えられるほどに練習するということは多くの人にはできないことだと思います。

なぜそれができるのかというと、その人にとって、その練習がいつも同じ練習ではないということだと思います。小さな外から見ていてはわからないような、違いの部分を日々修正し、感じているということだと思います。

それが「意図的な練習」だから「沈黙の10年間」を過ごせるということだと思います。

野球の「沈黙の10年間」、サッカーの「沈黙の10年間」、柔道の「沈黙の10年間」、体操の「沈黙の10年間」。自ら「沈黙の10年間」を過ごせる天才ではなくても「意図的な練習」をやらせることのできる指導者がいればすばらしい作品を生み出せる、のちに天才と呼ばれる人間になれるということでもあると思います。

勉強でも「意図的に学習する」ということができるようになれば、「沈黙の10年間」を過ごせるのかもしれない。

現在は、意図的に実践するということで、「意図的な練習」の機会を増やすことに挑戦しています。 

究極の鍛錬

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